【読書レビュー】頭のゴミを捨てれば脳は一瞬で目覚める【Kindle Unlimited】 

「我慢」というゴミを捨てる

Aさん

今の仕事と職場が自分に合っていない。かといってやりたい仕事も特にない

Bさん

毎日「行きたくない」と思いながら会社に行き「やりたくない」と思いながら仕事をする。オレの人生、こんなはずじゃなかった。

「我慢」

 あなたは我慢しながら、働いていませんか?働くことは我慢の連続です。気のあわない同僚、上司がいれば、そういった人間関係を我慢しながら、働いている人もいるでしょうし、自分には向いてない部署で、やりたくない仕事をしている人もいるでしょう。この章では、その「我慢」というゴミを捨て、もっと楽に生きていいんだなと、気づかせてくれる、こころを軽くなる章です。そうはいっても、大人になったら、子供みたいにやりたいことだけやる、なんて無責任。我慢してやらないといけないことは生きていくうえで、たくさんある。そんな人生あまくない。そういう考えの方もたくさんいますよね。日本の社会って我慢することを、美徳のようにあつかうので、どうしても「我慢」というゴミが捨てれない。そのような捨てようにも捨てれない、むしろ捨てずに生きたほうが、自分の成長につながるのでは?という考えがわたしを支配しています。しかし筆者は言います。

やらされ感でやり続けることは非常に危険。それはあなたのセルフ・エスティーム、「自己尊重」、自分の存在そのものに対する自己評価を深く傷つけて、さらに潜在能力も大きく低下させる。

やらされ感が自己評価を低下させ、さらに潜在能力を大きく低下させる。これはどういうことでしょうか。

この「やらされ感」「強制されている感」はあなたの無意識に「自分には他に選択の余地がない。なぜなら自分は大した人間じゃないから」というメッセージを刷り込む。これにより、あなたの自己評価はじわじわと下がり、確実にあなたの自己尊重を蝕んでいく。

これはわかります。やりたくない仕事をしているとき、本当に自分の中の自己評価がどんどん削られていったのを覚えています。

さらに「やらされ感」と「強制的動機」で行動しているとき、わたしたちは絶対に高いパフォーマンスを上げることはできない。どんどん仕事の能率は落ち、仕事のできない状態になっていきます。

言われてみれば確かにそうで、やらされている、という状態で良い仕事ができるはずがないですよね。逆に自分が心からやりたいと思えることなら、仕事の能率もきっとあがります。ここまでをまとめると

  • 「ねばならない」(have to)は何一つ良い影響はない。
  • 「我慢」は頭のモヤモヤとストレス生産性ダウンの大きな要因。
  • あたまの中はモヤモヤ、ストレスが増えていく。

ということです。「我慢」には何もいいことがないことがわかりましたね。しかし、職場の上司は言うわけです。

若い時の苦労は買ってでもしろ。石の上にも三年。人生とは我慢の連続だ。
やりたくないことをやってこそ、辛抱を覚えてこそ、人は成長できる。
大人とはそういうもんだ。(我慢をしながら仕事をさせるときの殺し文句)

しかし、ほんとうにやりたくないことをやって成長できるのでしょうか。筆者はこれを真向から否定します

筆者

先ほどのパフォーマンスの観点からいくとありえない。「人間は我慢で成長する」というセリフをあなたに言う人がいたら、自分がやりたくないことをやって人生の大半を浪費してきたから。自分の我慢だらけの人生のモノサシをあなたに強制している。

 ここまでで、我慢というものは捨てればいいというのはわかった。でもどうしたら、その「我慢」を捨てられるの?これまで、「我慢」することを続けてきたから。それが癖になってしまってうまくできないそういうかたもいると思います。そこで筆者は次の思考実験を推奨しています。

まず「やりたくないこと」を書き出す。数は5個から10個。それ以上書きたい人はいくつ書いてもかまいません。中身は家庭のことでも、仕事のことでもなんでも結構。次にその「やりたくないこと」のリストの中で。あなたがいちばんやりたくないことを選ぶ。そして、その「いちばんやりたくなこと」をやめてみる、ということがすぐにできればよいのですが、多くの人はそこで躊躇する。ですから、まずは思考実験の中でいちばんやりたくないことをやめてみる。

 わたしの場合は、残業、大勢での食事、飲み会、人の愚痴をきく、興味のない学会。いちばんは残業でした。これを分析していくと私の場合は、自分のプライベートな時間がとられることが、とても苦痛ということがわかりました。これをしたことで、自分って時間を大事にする人間だったということに初めて気づきました。やりたくないことをやめる。この習慣を大事にしていきたいと思います。

 この本を読む以前に働き方改革の影響もあって、残業なしで帰れる日が増えました。それまでは、勉強、残りの細胞診の標本をその日中に見て帰らないとって遅くまで残ったり。ただ、残ってる時間って能率が上がらず、グダグダしているうちに時間がすぎて、ってことが多かったんです。しかも、どうせ残業するからみたいな考え方になってたので、自分の仕事の能率も全くあがらない。職場の雰囲気も当時はどんよりしていた気がします。それが、残業しなくなると、自分の時間ができて、帰ってからこんなに時間ができるのって最高やなってなる。睡眠時間増える。仕事の能率アップ。残業したくないので、スピーディ-に仕事をするようになり、仕事にたいする集中力アップといいことずくめ。ただ、時々ある、時間外の検査にイラっとしてしまうようになったしまたのは、ちょっと良くないなぁと反省です。あとは残業してた状況からパッと帰るようになるのってやっぱり上司からの目が若干きつくなるというのはあったかも。でもそれを続けていくうちに、残業はしなくなったんだなっていう目で見てもらえるようになりました。 案外、やりたくないことをやめるのって、カンタンなのかもしれません。すぐに周囲は慣れて、そういう人なんだって思うようになりますから。

 今回の思考実験をして、そこから一番の「我慢」を見つけ出し、「我慢」をやめる。みなさまの生活のQOLがあがること間違いなし。オススメです。

「自己中心」というゴミを捨てる

 「自分中心」を捨てる。さて、前回の章で、やりたくないことを「我慢」するというゴミを捨てた場合。わたしは、残業でしたが、そういったものを捨てた場合、その人はそのあと何をすればいいのか、どういったことをすれば、モヤモヤから解消された、幸福感のある人生を送れるのかこれが今回の章のテーマです。しなければかいけないから、したいへ。「have to」が「wanto to」にかわる。捨てるべきものを捨てた後は、わたしたちには本当に必要なものを、自分にモノサシで選びなおすことになります。確かに、今の状態では、「我慢」を捨てたことで得たものを、どのように活用したらいいのか。フワフワした状態ですよね。ここで選択を間違えるとまた、「have to」に戻ってしまうので、注意です。慎重に考えていきましょう。筆者は言います。

筆者

捨てるべきものを捨てた後、自分に本当に必要なものを、自分のモノサシで選びなおすため、さらにすべてをwant toに変えるには正しいゴールを設定すること。

 正しいゴールとはなんでしょうか。筆者は正しいゴールとはまず、自分の本音と向き合ったのちに、そこから自己中心ではなく、広い視野で幸せを追求していくこと。その先に正しいゴールはあると言っています。自分の本音はどれだけ、自己中心でもかまいません。まずは、心の中だけで良いので、本音を開放し、自分にウソはつかない。世間の常識、他人の目、様々なモノサシを捨てて、自分の本音の願望を膨らませる。他人のモノサシでなくじぶんの本音が大事です。ただ、自分の本音の中身をそのままゴールに設定してしまうと、それは抽象度の低い、「自分中心」のゴールになってしまい、正しい幸福感は得られません。具体的な例をあげると「みんなからチヤホヤされる存在」というゴールを設定した場合、それは単なる優越感であり、幸福感は生まれません。「優越感はをかんじるのはしあわせじゃないの?」と思うひともいると思いますが、筆者の幸福論ではそれは「幸せではありません。

幸福とは、自分以外の人も一緒に幸せになってこそ、人間の幸せである、それが本当の幸福である。優越感は幸福感ではない。それは快感を得るのは自分だけだからです。その気持ちよさに自分以外は入っていません。にんげんの幸せとは、必ず自分以外の人が含まれているもの。「自分だけ幸せというのはありえない」

 ここまで読んでいくとと「自己中心」を捨てることは、幸福感を得るために最低限ひつようなことだったということが見えてきます。さらにこの「自己中心」を捨てることは「やりたいこと」を見つける近道であると筆者は断言しています。

「自分は何をやりたいいんだろう」「自分は何を本気で好きなんだろう」いわゆる「自分探し」の人たちの自問の世界には、自分しかいません。他人がいないのです。「やりたいことがわからない」という人に、わたしはこんな視点をおすすめします。「自分が何をすれば他人が喜ぶだろう」という視点で考える。実はそれが「やりたいことをみつける近道」

 ここで注意なのが、自分中心を捨てて、他人のために生きようとして、そこで、他人の評価や、他人の顔色をうかがうようになってしまっては、元の木阿弥です。そのあたりは筆者は言及していませんでしたが、自分中心、と他者への貢献に関しては、あまり偏った思考にならずに、こころのバランスをとりながら取り組んでいくことが大事なのかもしれません。

「恐怖」というゴミを捨てる

Aさん

会社を辞めたい。でも、辞めて食っていける気がしない。しょせん自分は、会社にしがみついて生きていくしかないのか。

Bさん

強くなりたい。どんな修羅場でも折れない心を手に入れたい

 今日まで様々なゴミを捨ててきましたね。ここからは、あなたが次のステップにうつるための章になります。「感情」「他人のものさし」「これまでの自分」「マイナスの自己イメージ」「我慢」「自己中心」これらを捨てたことで、次にあなたが見据えるのは、未来です。あなたが上記のゴミを捨てれていれば、ゴミによるしがらみがなくなり、心が軽くなり、よりよい時間を手にしていることと思います。しかし、そのまま。ぼーっとすごしていれば、また、あたまの中にはゴミが蓄積されて、せっかく頭の中を掃除したのに、その意味がなくなってしまうでしょう。何か新しいことをはじめてみたいですね。しかし、なにか新しいことをはじめるのって、勇気が必要です。新しいことをはじめたその先に何が、まっているのか、未来はだれにもわからず、不安ですし、「恐怖」をともないます。そんな「恐怖」というゴミを捨て、次のステップへ進む指針をこの章、筆者は紹介してくれています。まず、筆者は「ありもしない恐怖に支配されるな」といいます。これはどういうことでしょうか。まず筆者は読者に「何のために働くのか」という問いを投げかけます。何のために働くのか、わたしはそんなこと考えたこともなかったです。大人になったら働くものだと刷り込まれて育ったので、そういったことに考えめぐらすことをしようとも思いませんでした。考えてみるとなんでわたしは働いているんでしょう。単純に考えるなら、人間らしく生きるためでしょうか。おそらく、わたしの場合、働かずに、家で引きこもりながら生活した場合、自堕落にまいにちをすごし、生活リズムも崩壊し、一生を終えるという自身があります。そういった意味でわたしの場合、働かないと人間として生きていけないから、働いているのかも。あなたはどうですか?なんのために働いていますか。筆者は、多くの読者は、「食べていくため」という答えに落ち着くといいます。

筆者

人は「食べていけなくなること」に「恐怖」し、いやな仕事でも我慢する。この「食えなくなる」ことへの恐怖は、ある意味では人類の歴史を通して刷り込まれてきたといえる。人類の歴史を紐解くと、600万年の歴史のほとんどを、人類は飢餓への恐怖とともに生きてきた。しかし、現代の日本において、仕事がなくなったからといって、すぐに餓死する可能性は、少なくとも日本ではありません。

これがありもしない恐怖に支配されるなということですね。もし、自分のやりたいことに挑戦して、食えなくなれば、ある程度の補償は国がしてくれますし。贅沢いわなければ、コンビニのアルバイトすればいいわけです。そこからまた、ゴールにむかって再出発することも可能です。また、さらに筆者は 「失敗」はありえない とも言っています。

ここまで説明しても、やりたいことがあるのに、会社を辞めたり仕事を替えたりすることに踏み出せない人がいます。その人はきっと、「食えなくなる」という恐怖の他に、「失敗したらかっこわるい」という恐怖や「家族にみじめな思いを味わわせたくない」といった恐怖のような様々な恐怖が現状維持を選んでしまう。

ステップ3で述べたことを繰り返して強調します。自分の未来は最高であると確信して生きる人にとっては、どんな過去の自分も、どんな困難にある現在の自分も最高の自分になる。繰り返し言うと、最高の未来から振り返れば「失敗」というものはありえない。最高の未来のために、さまざまな出来事が必要だった、ということなのです。ですから、失敗を恐れる必要はありません。

なんだか、挑戦して生きる勇気がわいてくるような言葉ですね。失敗する「恐怖」が吹き飛んでいきそうな、そんな一文です。また、筆者は恐怖の感情を消すルールとして次のことを推奨しています。

現代の日本において、偶発的な事故や通り魔事件を除いて日常的な危険はない。恐怖の感情を日常的に抱くことはもはや必要がなくなっている。ところが、実際には、人々は日常的に何かを恐れ、頭の中をモヤモヤさせている。恐怖で思考がみだれ、生産性が落ち、仕事が手につかなくなっている。そんな時は「すべての感情を娯楽にする」「ゴール達成に意味のある感情だけを自分に許可する」というじぶんに課せば良い。

感情を娯楽にして、意味のある感情のみで生きていく。単純そうで難しそうな生き方ですが、実践できれば、人生が楽になるような考え方ですね。「恐怖」というゴミは、捨ててしまえば、こんなに楽なんだ。恐怖がなくなれば、やりたかった色々なことに挑戦できそう。そんな勇気を与えてれる章でした。次が最後の章です。最後のゴミを捨て、頭のなかの大掃除。頭のなかは澄み渡ります。

「論理へのとらわれ」というゴミをすて「ひらめき脳」を手に入れる

Aさん

考えていると頭がゴチャゴチャしてきて、考えるのが嫌になる。自分は頭が悪いらしい。

Bさん

天才と呼ばれる人たちの頭の中を知りたい。

Cさん

人が思いつかないようなアイデアを出せるようになりたい。

 7つのゴミを捨て、あなたの頭のなかは、ほとんどのゴミを出し切っています。今回の章では、そのきれいな頭の中をどういう風に活用すれば、新しい道がひらけるのか。さらにその道で活かせる、いいアイデアが浮かんでくるのかを学んでいきます。「論理へのとらわれ」を捨てる。これは論理的に考えることを捨てるということです。なぜ、論理的思考を捨てなければいけないんでしょう。最近だと、ロジカルシンキングの本とかでてますよね。筆者はこの論理的思考には限界があると考えているようです。例えば、論理的に考えるとするとAという事象→Bという事象→Cとい事象という形で物事を筋道たてて、考えていきます。学校などの教育機関ではの筋道をたてて、考えるロジカルシンキングが、推奨されてますね。しかし現実の事象は順番に直線的になど展開しないと筆者はいいます。

筆者

一つの事象の中のいくつもの要素が絡み合いながら一挙に展開し、刻一刻と変化し、それと同時に他の事象とも絡み合って相互作用しながら進みます。

ちょっと難しいですね。例を見ていきましょう。

例 「歩く」という動作を言葉で記述してみようとしてみてください。「まず、右足の足裏を地面から離します。そして、左足に重心を移動して、右足を前に運びます」と順番に記述したとします。しかし、現実には「左足裏を地面から離す」ために「左足に重心を移す」「右足の大腿筋を使って足を運ぶ」「右足の膝が曲がる」「足首が曲がる」「左足も関節を曲げる」などの現象が同時に進みます。ただ、「歩く」という動作一つとっても、言葉で正確に記述することはできません。

 このように、現実の事象は順次直線的に展開しないため、言葉で物事を順次直線的に記述、思考することには限界があり、それを順を追って整理しようとしても無理なのですと筆者はいいます。たしかにそういわれると、ロジカルシンキングでは、現実のさまざまな現象に対応するためには、細かい部分まで時間をかけて考えて、それでも、網羅しきれない。そんな弱点が見えてきました。さらに筆者は論理的思考の弊害をあげています。

筆者

順を追って考えるということは、常に部分、部分にフォーカスしていること。現実の事象は、全体が部分から成り立っているだけでなく、全体と部分が双方向に関係している。したがって、部分を順に追うだけでは全体はわからない。全体がわかることで部分がわかる。

 部分部分を見ているだけでは、全体が見えてこない。は何となくわかります。「全体がわかることで部分がわかる」。これはちょっと難しいですね。また、例を見ていきましょう。

例① 歩くという動作の場合、足首の動き、膝の動き・・・・と各部だけ見ていても、その人が歩いているのか、あるいは片足を前に出してボールを投げようとしているのかわかりません。部分を見ているだけでは各部の動きの意味・意図がわからないのです。しかし、全体を見て「歩いている」ことがわかれば、足首や膝が「歩くために曲がっていることがわかります」
例②言語も全体が部分から成り立っているだけでなく、全体と部分が双方向的に関係しています。「くもが見える」と聞いた時、その「くも」が「蜘蛛」なのか、「雲」なのかはわかりません。しかし、「くもが見える。向こうの山の方に」と言われたら、「雲」だとわかります。「くもが、見える。向こうの山の方に」という全体がわかってきてはじめて、「くも」が「雲」だとわかる。

 つまり、全体がわかることで、部分がわかるのです。しかし、つい最近までは、逆の「部分が全体をつくる」という考え方がスタンダードだったようです。人々は「部分が全体をつくる」「部分を順にみていけば全体がわかる」「部分を順に追っていけば答えがわかる」という考え方にとらわれています。わたしもそうです。普通はそう考えますよね。順序だてて考えていけば答えがみつかる。そんな学校の授業の考え方は現実では限界がある。そういってるわけです。ただ、ここで、注意なのが、論理的思考力を完全に捨てるというのは、筆者は推奨していません。順を追い、筋道を立てて考える論理的思考はもちろん必要、それは思考力の基礎です。筆者が求めているのは、必要に応じて、論理的な構築力を使い、また、必要に応じて論理を超えることができる。部分を追いながら、常に全体が見えている。部分にフォーカスするのも、全体を俯瞰するのも、自由自在にできる。そんな頭の中の構造です。また、これが、ひらめきを生む頭の構造だといっているのです。また、この全体と部分との双方向の関係を「ゲシュタルト」といい、「ゲシュタルト」によって事象を認識する能力を高めることが必要とし、さらにそのためには、抽象度を上げて知識を増やすことが必要と筆者はいっています。ここにきて必要なことがどんどん増えてます。頭の空いたスペースに必要なことをどんどん詰め込んでいきましょう。抽象度を上げて知識を増やすことが、どう、ゲシュタルトによる事象の認識する能力があがるのか、ちょっとわかりずらいですね。例を見ていきましょう。

例 ワインのゲシュタルトができているということは、個々のワインを口に含んだだけで、あるいは香りをかいただけで、そのワインがどこで、いつどんな果実を使って醸造されたか一瞬でわかります。そういうことが一瞬でわかります。そういうことが一瞬でわかるのは、情報空間における視点(抽象度)が高く、かつワインに関する豊富な知識があるからです。しかし、抽象度が低く、知識が少ないと、「ブドウのワインについてしかわからない」となります。リンゴやサクランボでつくられたワインについてはわかりません。そこから抽象度を上げて、知識が増えると「ブドウでもリンゴのワインならわかるよう」になります。さらに抽象度が上がり、知識が増えると、「ブドウでもリンゴでもサクランボでもワインのことならわかる」となります。抽象度が上がれば、同時に知識も増えていきます。見渡せる範囲が広がるため、入ってくる情報も増えるのです。

さらに筆者は言います。

筆者

人間はさらに抽象度を上げていくと、ゲシュタルトとゲシュタルトを合わせて新たなゲシュタルトをつくることができる。

 ゲシュタルトがなにが、なんだかわからなくなってきました。ゲシュタルトがゲシュタルト崩壊してます。もう一度復習しましょう。ゲシュタルトとは全体と部分との双方向の関係のことをいいます。これも例を見ていきます。

例 製造会社に勤めていて鉄鋼に詳しい男性が、美術館で宝飾品をみていらい、貴金属に興味がでて調べ始める。そして、鉄鋼のゲシュタルトと、貴金属のゲシュタルトが合わさって、金属のゲシュタルトという大きなゲシュタルトができる。このとき、この人の抽象度は以前より上がり、知識も増しています。

 さらにゲシュタルトが大きければ、ちょっとした情報のインプットに対し、多様なアウトプットができ、またさらにそこから、人が思いつかないようなアイデアがててくるわけですね。ここで、筆者はヘレンケラーと、アン・サリバンのエピソードを例にだしゲシュタルトが形成されることのすばらしさを書いています。とても感動的で、わかりやすい例になっています。ぜひ続きは本の中でご覧ください。じっくりと読めば読むほど、この本はわたしの心を軽くしてくれました。おそらく一週間前の自分の頭のなかは、様々なゴミでいっぱいでした。つまらないことで、悩んだり、つまらない我慢をして、霧の中のようにモヤモヤがとれない状態だったと思います。ただ、これを書いている今は、頭のなかがスッキリして、心も透き通り、毎日がキラキラとした日々を過ごせている感じです。ぜひ皆さんも、頭の中のゴミを捨て、脳を目覚めさせてください。きっとあなたの人生を豊かにしてくれますよ。お相手は病理担当シーザーでした。

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